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鑑賞メモ、読書メモ、日常の彩りに思うことなど。

横浜トリエンナーレ。

気配り美女ちゃんを誘い、3年前は行き損ねてしまったから、6年ぶり(笑)の横浜トリエンナーレへ。

 

美術館は、初めて・・・という彼女。美術館に行ったことがないひとが、愉しむことができる美術展は何ぞや・・・と考えた挙句、横浜トリエンナーレにしてみたものの、観始めてから「コレハ、マチガッタカモシレナイ。。。」という想いに囚われてしまった。

 

其々の作品解説のパネルには、(作家自身の言葉・作品の詩的な解釈・作家&作品に関する説明)が、所狭しと書かれていて、その文章を読みながら、己自身の思考と絡み合わせながら、そして、目の前にアル作品にすこし茫然としながら観てゆく。それは言わば、解らなさの中で振り回される自分に唖然としながらも、振り回される中から自分の観方を見いだすことで、作品を、文章を咀嚼するという、精神力や体力を相当消費する展示の数々だったからだ。

 

美術館に、誰かと二人で行くということを、しかも美術館へは初めていくladyと一緒に行くということをしたことがなかった私は、どういう風にこの作品を観ることができるか、この作品とあの作品が連続して展示されていることには、どのような意味があるのか・・・etcについて、歩みを進めながら、互いに語り合っていった。

 

彼女が関心を示しているものに注目してみると、既存の価値観に対して疑問を呈するようなものに興味を惹かれているようだった。平均台の上にお釜を置き、その上に立ってバランスをとる女性の写真とか、ココロを病んでしまったひとと昔はどう関係性を結んでいったのかというインタビュー映像とか、廃棄物によって創り出される日本画のようなものとか。作品を起点にして、そこから想像力を膨らませ、物事の核心へ、問いの核心へ辿りついてゆく彼女に・・・愉しんでいる様子に、すこし安堵しつつ。

 

彼女が、一際気に入った作品があった。裸体の女性が、大木のようなものを眺めながら、背中を向けて横たわっているもの。「あっ・・・きれい。」その言葉に、ふと作品のタイトルへ目を向けてみると、題名は「すべてがむなしい」。何故このタイトルなんだろうね・・・などと言葉を交わしあいながら、展示を観終わると、観始めてから、2時間半が経過していた(笑)。

 

己自身の、物事についての観方に関する方位磁石が、どこを指しているか分からなくなってしまうような作品群のなかで、その世界観に抗うことなく身を浸し、思考を編んでゆく。その過程を愉しみあえたのは良かったなと思いながら、二人で糖分補給という名のお茶会タイムもして、互いの色々を語り合ったり。

 

同じ場を共有しあう中で、互いの言葉の中から、思考のズレを、ココロのズレを認識しつつ、そのズレを矯正することなく、どう良く解釈していけるかを探し合うような語りの時間。それは、貴重な、大事なひとときで、これを大事だと理解できている間は、擦れてはないな、私・・・そんなことも考えていたひとときだった。

 

誰かと一緒に食べながらお喋りする時間ってだいじ。