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自信ということば。

思えば、随分とつかみどころのない、決まり文句として使い勝手よく使用されているように思う。「自信がある人は、カッコいい。」……その安っぽい台詞に、ひとは踊らされがちだ。この言葉をテーマに語り合う場で、或るひとの語りに、首を45度傾げた。

 

ー他者に認めてもらわないと自信がつかない?-

 

余りにも意味が私自身解らなかった。他者に認めてもらうことではじめて己自身が確固たるものとして成立することができるのならば、それは、他者によっかかることでしか自分自身は立つことが出来ない、自律することができない・・・そういうことになる。最初の言葉「自信がある人は、カッコいい。」それは、自身の基軸がしっかりあり、ゆるぎない強さしなやかさを備え持つ、そういうひとを、カッコいいと言っているのではなかったか。そうだとすると、随分と内実が異なり「カッコ悪い」と言いたくなってくる(笑)。

 

そして、ふと、そんなに人は他者に認められたいのか……??と不思議に思いはじめた。僕自身は、褒められたりしただけで「この人は大丈夫だろうか?」と心配になってくる。認められようものなら、相手が目を覚ますことができるように、あくせくと色々頑張ってしまうように思う(笑)。まぁ単なる捻くれと言われればそれまでだが。

 

ココロの奥底から認められる、それだったら、己を包み込まれるように感じ、幸福感へと誘われるかもしれないけれど・・・単なる安いおべっかでしかないのなら???おもねりでしかないのなら???誠実に相手と向き合うことのできないものからの偽りの言葉で満たされたつもりになっている己自身というものは、なんとも哀しい。それで満たされるとすれば、己自身も誠実に人と向き合っていない、人に対して信頼を抱かない、抱いたことがない・・・そんな風に言えるのかもしれない。

 

それにしても、何故、自信という空虚な鎧をほしいと人は思うのだろう。自信・・・それを、語りあいのその場では、僕は自己肯定感と意味合いを同じくして理解できるのかと思ったけれど、そうではないのかもしれない。自分自身を信じることはせず、いつでも揺らいだ地面の上を、揺らぎに身を任せるように、猜疑心を持ち、不安とともに一歩ずつ踏み出すことができる、そういうひとであり続けられている時、私自身は、自己肯定感を持っているのだろうな・・・そう、羅語美女と文通するなかで今のところ気づいていったから。そういう状態であるとき、一般的には自己肯定とは言明しないのかもしれないけれど、私自身にとっては自己肯定なんだなと新たな気づきを得た今日この頃。

 

ー自信は、一歩踏み出すパワーーそんな言葉もあったけれども、自信がないからこそいつでも踏み出せるのかもしれないと思う。それは、怖いもの知らずとは異なる。恐れ多いものに溢れているからこそ、歩みを進め、奥深く掘り進めて行こうと思うに至る、わかきココロ(幼すぎなココロ???(笑))を持っているサインなのかもしれない。(年齢おいくつという突っ込みされれば、来年年女ですよと言う年齢だけれども(笑)。)

 

自己反省……それで以前は石橋をたたき割るタイプだったけれど、、、このところは、そうでもなくなったかも知れない。とはいえ、十二分に叩き割って砂の絨毯になったところを渡ってる気がしないでもない(笑)。

 

やっぱり・・・でも、解らないな。出来ないことを放り投げ、受け流すことが精神の余白につながり、自分自身の自信になるという他の或る人の語り。己自身と向き合うことから逃げるということ、それが専門性の強化につながるのかは・・・幼き思考からはまだまだ解らない(笑)。自身からもし私が逃げたら、私はこの世界にはもういないものなぁ・・・そんなことも思いつつ、そう思うことが出来ているということは、まだ幼くいられているということなのかも知れない。大人になれないということでもあるか(笑)。

 

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