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鑑賞メモ、読書メモ、日常の彩りに思うことなど。

我儘

オンライン哲カフェへ、ポチッと参加して。その日のテーマは「我儘」について。


我儘……の言葉には、自分勝手とは異なる愛らしい側面(ありのままというような)を持ちつつも、我儘という表現それ自体が何故発生してしまうのだろう……そんなことをぼんやり考えていた。


我儘を言い換えてみると、頑固かなぁ……そんなことを羅語美女と数日前にやり取りしていたことを思い出しつつ、哲カフェの中で出てきたのは、我儘の対義語としての「他人任せ」。(この発言をなさっていた彼女さんとはいつか直接逢いたいと常日頃想う。)


他人任せ、それは、自発的にその場を沸き立たせようとすることなく、参加していても責任の一端を担っているということを意識せず、傍観者でいること……そう捉えてみると、「我儘」は、責任を引き受けているということになるのだろうか。とはいえ、若干の傍若無人さは残る。


そんな中、我儘でありたい・我儘を否定する人は、自分がそうなれないからやっかむだけでは?・我儘は技術・…その発言に面白さを覚えると同時に、ある種の違和感を覚えた。人からの目線を、他者からどう見られているかを、それを一番大事に考えているひともいるのか、と。自分自身が、純粋無垢に愉しさを追い求め没頭していたら、そういう姿には誰しも我儘という言葉は用いないだろうなとステキな人々を思い浮かべたとき……我儘でありたいという言葉がしっくりこなかったように思う。


我儘という技術を身につけた時、その我儘を己自身で飼い慣らすことができなければ、自分自身を殺すことにもなる。また、自分自身が我儘であることができるように許容し、そこはかとない自己犠牲を持って接してくれている人たちに目を向けることを忘れてしまう。


そう考えると、我儘は諸刃の剣だな……項羽みたい、なんて(笑)。


ならば、自分が我儘かどうかと問われると、人は誰しも我儘なのだけれども、それぞれの興味関心をのばして四方八方散らばっていくことを推奨されてきた大前提がある故に、我儘でありたいという思考を持たないうちから、そうあることを良しとされていたのは有り難かったな、つくづく……そんな想いを抱く。


自己肯定感が増した、不思議な回だったな。



語らいの時

おなじ眼差しを持ち、淡々と、けれども情熱的に足掻くもの同士で、モンドリアン展をじっくり堪能した時間。


ジャズ喫茶で語らうとき、私は混沌とした中を駆け巡りながら言葉を絞り出すなか、彼女はそれを、簡潔に形姿へと誘っていて。


目を剥き出し唖然としている私の表情を、クスッと愉しんでいる彼女を俯瞰するなかで、すこし息抜きになれたかな、と思いつつ。


ひとりで動きがちでありながら、同じものを大事にしあい慈しみあい没入していくもの同士、言葉の御手玉を交わすなか、意気込みの交流をしあえたこと、良かったな。

運とは。

小学1年生の頃から、自分がとことん興味を持ったものに関して、何かを読んでご意見を書いたり、アンケートを書いたり、募集されている企画を書いたりして応募し、そのことをすっかり忘れていると、色々なお届け物がピンポーンと届いていて。とはいえ、肝心要なところでずっこけやすいのが玉に瑕なのだけれども(笑)。

 

それ故なのか、思えば、私自身全然巧く生きることができていないものの、自分を「運がない」と思ったことは一度もないなぁ……何事も、すべて自分の責任・自身の振舞いに起因すると考える立ち位置だ、そういえば。運という偶然性は己が培ってきた責任そのものなのでは? そんなことをぼんやり考えながら、「運」について語らい合う場へ、ノコノコ出向いていった(オンラインだから、urlをポチッとするだけだけれども(笑))。

 

運という言葉をどのような文脈で使用するかによって、その人自身の生き方・あり方・人格性を顕わす……とか、運が自身を形作るのではなく、その時々の選択が今を創る……とか。盛んに繰り広げられる語りを耳にしながら、すこし何か違和感を覚えていた。

 

その違和感の正体は、自分自身を顧みて俯瞰するものが少なかったからかもしれない。どうしようもなさ、やるせなさを何かのせいにする(=運のせいにする)ことで、己のココロの蟠りを解消する……その筋道を作りがちならば、自身について正面から向かい合い、思考を巡らすことから逃げているのではないか、と。

 

VHSテープなど録音技術に頼りきってしまうと、今その時を大事にすることなく、作品を観たところで印象の残存性は薄い……そんな語りの途中で繰り出された「過去に戻ってやり直すことができるのならば、運命をやり直したいと思うか」という問い。思えば、映画やアニメなど、その手の作品は多いものの、観ている時に常に思うことがある。……結局のところ、過去に戻ってやり直すということは、消しゴムで自分勝手に消すことが出来ない過去を、自己反省する機会を逸し、見ないフリをすることになってしまうのではないか。外的要因に影響されて自身を偽ることなく、おのれをむき出し、自身を透明な眼差しで見つめ射抜くこと……それが出来なければ、それをする覚悟という責任を負うことができなければ、なにひとつ変わることはない。

 

それが出来たとき、反省を踏まえた時点から新しくやり直しはじめることはできる。けれども、それと同時に、やり直したいと思った過去の時期の自分自身は……一回性の過去の連続性を愛しんで生きることをしてこず、対峙する人々と育む「時」を大事にしてはこなかった……ことになる。当時の自分の態度に対して責任を認めることができるか。

 

そう考えてみると、かなり背負うものは大きく重量感がある。私自身は、気軽く「過去に戻って~」とは言わないために……というか、その時々を大事にしあい、覚悟を常に持つことを幼き頃にラジオで気づいていたからか?、順風満帆とは程遠いとはいえ(笑)(←笑うところではない)、今があるのかも。

 

そんなことに気付かせてもらった語り合いの好き時間であった。

 

……とはいえ、わたしゃ全然生真面目ではないけれど(笑)。

 

思わず微笑む。

中心人物さんたちの企画書、はじめの一歩があって。

 

これも必要、それならあれも必要、だったらそこは纏めてこうするのは?……etc、語りの応酬が続いていくさまに、思わずココロの奥底で微笑んでいる私が居た。たまらなく愉しくって。

 

じっくり時間をかけながら、横断が実ったら面白いだろうなと思いつつ。

 

話は変わり。

 

「雑談」なるものの内実について少し考える。中身のない雑談ほど、ひとは覚えているもの……そのような言葉を耳にし、首を45度傾げてしまった。そして、ふと気付く。観流してしまうことができるような、空疎なものを観たり耳にすることで、一呼吸するひとが多いように見受けられる昨今ならば……耳に残るもの、脳裏に書きこまれるものは、己がおのれ自身らしくあるタイミングの状況で見聞きするものなのかしら??

 

イマイチならぬ、イマ5ぐらい解らぬ。。。

自信ということば。

思えば、随分とつかみどころのない、決まり文句として使い勝手よく使用されているように思う。「自信がある人は、カッコいい。」……その安っぽい台詞に、ひとは踊らされがちだ。この言葉をテーマに語り合う場で、或るひとの語りに、首を45度傾げた。

 

ー他者に認めてもらわないと自信がつかない?-

 

余りにも意味が私自身解らなかった。他者に認めてもらうことではじめて己自身が確固たるものとして成立することができるのならば、それは、他者によっかかることでしか自分自身は立つことが出来ない、自律することができない・・・そういうことになる。最初の言葉「自信がある人は、カッコいい。」それは、自身の基軸がしっかりあり、ゆるぎない強さしなやかさを備え持つ、そういうひとを、カッコいいと言っているのではなかったか。そうだとすると、随分と内実が異なり「カッコ悪い」と言いたくなってくる(笑)。

 

そして、ふと、そんなに人は他者に認められたいのか……??と不思議に思いはじめた。僕自身は、褒められたりしただけで「この人は大丈夫だろうか?」と心配になってくる。認められようものなら、相手が目を覚ますことができるように、あくせくと色々頑張ってしまうように思う(笑)。まぁ単なる捻くれと言われればそれまでだが。

 

ココロの奥底から認められる、それだったら、己を包み込まれるように感じ、幸福感へと誘われるかもしれないけれど・・・単なる安いおべっかでしかないのなら???おもねりでしかないのなら???誠実に相手と向き合うことのできないものからの偽りの言葉で満たされたつもりになっている己自身というものは、なんとも哀しい。それで満たされるとすれば、己自身も誠実に人と向き合っていない、人に対して信頼を抱かない、抱いたことがない・・・そんな風に言えるのかもしれない。

 

それにしても、何故、自信という空虚な鎧をほしいと人は思うのだろう。自信・・・それを、語りあいのその場では、僕は自己肯定感と意味合いを同じくして理解できるのかと思ったけれど、そうではないのかもしれない。自分自身を信じることはせず、いつでも揺らいだ地面の上を、揺らぎに身を任せるように、猜疑心を持ち、不安とともに一歩ずつ踏み出すことができる、そういうひとであり続けられている時、私自身は、自己肯定感を持っているのだろうな・・・そう、羅語美女と文通するなかで今のところ気づいていったから。そういう状態であるとき、一般的には自己肯定とは言明しないのかもしれないけれど、私自身にとっては自己肯定なんだなと新たな気づきを得た今日この頃。

 

ー自信は、一歩踏み出すパワーーそんな言葉もあったけれども、自信がないからこそいつでも踏み出せるのかもしれないと思う。それは、怖いもの知らずとは異なる。恐れ多いものに溢れているからこそ、歩みを進め、奥深く掘り進めて行こうと思うに至る、わかきココロ(幼すぎなココロ???(笑))を持っているサインなのかもしれない。(年齢おいくつという突っ込みされれば、来年年女ですよと言う年齢だけれども(笑)。)

 

自己反省……それで以前は石橋をたたき割るタイプだったけれど、、、このところは、そうでもなくなったかも知れない。とはいえ、十二分に叩き割って砂の絨毯になったところを渡ってる気がしないでもない(笑)。

 

やっぱり・・・でも、解らないな。出来ないことを放り投げ、受け流すことが精神の余白につながり、自分自身の自信になるという他の或る人の語り。己自身と向き合うことから逃げるということ、それが専門性の強化につながるのかは・・・幼き思考からはまだまだ解らない(笑)。自身からもし私が逃げたら、私はこの世界にはもういないものなぁ・・・そんなことも思いつつ、そう思うことが出来ているということは、まだ幼くいられているということなのかも知れない。大人になれないということでもあるか(笑)。

 

グルグル解らん。ぽへ。

根付くために。

研究会後の座談会。中心人物さんたちの語りを耳にしながら、具現化したら面白いことになりそうだなと思いつつ、ふと、その言葉の根付きにくさって何なんだろう・・・なんてぼんやり頭を巡らせていた。

 

ひとりが語っていた・・・解釈学より思想史・・・確かにそれの方が求心力持ちそうと思ってしまうのって何なのだろう。

 

オンデマンドの良さは、よくかみ砕いた上で質問応答を練りあうことができる。けれどかみ合うタイミングを逃す危険性あり。

 

オンラインの良さは、言葉の瞬発力がものをいう。そぎ落とし過ぎないようにという注意だけは怠ることなく。

 

内輪過ぎず、雑多な集まりにもなり過ぎない、その2点のみ気にかけつつ、言葉が纏うしばりを和らげることができたら・・・四方八方から色々わんさか来て面白くなりそうだな、なんて。

 

中心人物さんたちの企画書たのしみだなと思う夜。

橋渡し

読書会が終わった後の座談会中、モテる雰囲気のあるその方は、下記のようなことを言っていた。

 

「オンラインからオフラインの現実界で実際に逢えた時に、コミュニケーションがうまくとれて仲間と愉しく語らうことができるように、今のうちに橋渡しの作業をしておかなきゃと思って。」

 

と。不思議で面白い言葉だなと思いつつ、思わずラジオっ子としての己自身に、意識を揺り戻してみる。

 

話し手の声・話されている内容・ジングルetcを、オンライン状態で耳にするリスナーたち。毎週または毎日そのラジオというオンラインの場に自らの意思で集うものの、互いが顔を合わせるということはない。とはいえ、番組にメールを送っていたり呟いていたりしたものが話し手さんによって読まれていると、RN.という形で、互いの耳に残ることになる。ラジオ番組に、リスナーという形で番組制作に或る意味関わる聴衆者たち。それが、オフラインになった瞬間・・・リスナー同士だけでさえ、或る面白かった回の内容だったり、ジングルを口づさんでいたり、それだけで、旧知の仲のように愉しく語り合うことができるのだ。。。

 

とすると、文頭のモテる雰囲気のあるひとは、授業という或る意味強制?!の場を……否、だいがくという時点で、強制という価値意識を持たざるを得ないのならば、出る必要なぞないのだが(それはさておき)……自らの意思で参加したくなるような場にするべく、オンライン上で骨を折っているのか、このご時世だから誰しもすごいな、と。

 

でもここで、ひとつフニオチない点が。物事を取り組むに際しての能動的な意識がよわい若者ってなんなんだろう・・・型を抑圧と捉えるか、または、型を自由と捉えるか・・・なのかな、まだよく解らん。