ひっそり、こっそりと、稼働中。

鑑賞メモ、読書メモ、日常の彩りに思うことなど。

運とは。

小学1年生の頃から、自分がとことん興味を持ったものに関して、何かを読んでご意見を書いたり、アンケートを書いたり、募集されている企画を書いたりして応募し、そのことをすっかり忘れていると、色々なお届け物がピンポーンと届いていて。とはいえ、肝心要なところでずっこけやすいのが玉に瑕なのだけれども(笑)。

 

それ故なのか、思えば、私自身全然巧く生きることができていないものの、自分を「運がない」と思ったことは一度もないなぁ……何事も、すべて自分の責任・自身の振舞いに起因すると考える立ち位置だ、そういえば。運という偶然性は己が培ってきた責任そのものなのでは? そんなことをぼんやり考えながら、「運」について語らい合う場へ、ノコノコ出向いていった(オンラインだから、urlをポチッとするだけだけれども(笑))。

 

運という言葉をどのような文脈で使用するかによって、その人自身の生き方・あり方・人格性を顕わす……とか、運が自身を形作るのではなく、その時々の選択が今を創る……とか。盛んに繰り広げられる語りを耳にしながら、すこし何か違和感を覚えていた。

 

その違和感の正体は、自分自身を顧みて俯瞰するものが少なかったからかもしれない。どうしようもなさ、やるせなさを何かのせいにする(=運のせいにする)ことで、己のココロの蟠りを解消する……その筋道を作りがちならば、自身について正面から向かい合い、思考を巡らすことから逃げているのではないか、と。

 

VHSテープなど録音技術に頼りきってしまうと、今その時を大事にすることなく、作品を観たところで印象の残存性は薄い……そんな語りの途中で繰り出された「過去に戻ってやり直すことができるのならば、運命をやり直したいと思うか」という問い。思えば、映画やアニメなど、その手の作品は多いものの、観ている時に常に思うことがある。……結局のところ、過去に戻ってやり直すということは、消しゴムで自分勝手に消すことが出来ない過去を、自己反省する機会を逸し、見ないフリをすることになってしまうのではないか。外的要因に影響されて自身を偽ることなく、おのれをむき出し、自身を透明な眼差しで見つめ射抜くこと……それが出来なければ、それをする覚悟という責任を負うことができなければ、なにひとつ変わることはない。

 

それが出来たとき、反省を踏まえた時点から新しくやり直しはじめることはできる。けれども、それと同時に、やり直したいと思った過去の時期の自分自身は……一回性の過去の連続性を愛しんで生きることをしてこず、対峙する人々と育む「時」を大事にしてはこなかった……ことになる。当時の自分の態度に対して責任を認めることができるか。

 

そう考えてみると、かなり背負うものは大きく重量感がある。私自身は、気軽く「過去に戻って~」とは言わないために……というか、その時々を大事にしあい、覚悟を常に持つことを幼き頃にラジオで気づいていたからか?、順風満帆とは程遠いとはいえ(笑)(←笑うところではない)、今があるのかも。

 

そんなことに気付かせてもらった語り合いの好き時間であった。

 

……とはいえ、わたしゃ全然生真面目ではないけれど(笑)。